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幕末の元治元年(1864年)に大阪で創業した当店「丸萬本家」は、初代店主の飯井藤吉が能登(石川県)から大坂へやってきて開いたものです。武士をやめて大坂で店を開こうと決意した藤吉が訪れた瓢箪山稲荷神社(東大阪市)で辻占をし、「西のにぎやかな場所で商売せよ」とのお告げを受けて戎橋の南詰に店を構えました。またその辻占で盆に饅頭を載せた人が通ったので丸萬という店名に決めたという伝説があります。 |
明治時代の料理店案内より
(大阪市立中央図書館蔵) |
五代店主の後藤市蔵、六代店主の武美によって現在の魚すき(海魚すき)は完成し、その苦心によって極められた「魚の臭みを感じさせないだし」による魚すきが浪速の名物として定着。昭和4年に戎橋南詰の店が洋館に建て替えられました。この建物は大阪ミナミのシンボルとなり、さらに賑わったそうです。 |
戎橋南詰の洋館
(昭和4年完成の店舗) |
昭和4年完成の洋館の入り口 |
洋館 2F 広間 |
戦後、鰻谷に移転しましたが、平成8年(1996年)に七代店主の死去により後継者がおらず、魚すきの伝統が途絶えそうになりました。そのとき、七代店主の弟で画家である現在の店主、八代
後藤隆平が店の再開に乗り出しました。
鰻谷で六代店主の父親を手伝っていたため味を熟知しておる隆平は「自分が元気なうちに復活したい」という強い思いと、再開して欲しいという常連のお客様からの熱い要望を受けて、11年ぶりに大阪名物「魚すき」の店「丸萬本家」を復活させました。
再開にあたって店舗の外観の意匠参考にしたのが、下の銅製原版でした。 |
銅製の原版
(裏木がついているため、現在の輪転機に入りません)
銅製の原版と、それによる印刷
(彫刻家である長男 英之の苦心により、京都でみつけた古い印刷機によって印刷が再現) |
これは初代店舗の写真を製版(エッチング)した原版で、製作時期が不明ですし、現在の印刷技術では印刷することができません。苦労の末、京都で見つけた古い印刷機械によって、印刷が甦りました。 |
銅製の原版から甦った初代店舗の外観 |